少しだけお時間をください。
こんばんは、突然ですが端的に自分語りする人って嫌われますよね、笑笑
しすぎは良くないんです。でも今日は山崎ナオコーラさんの「美しい距離」を読んでしまい、分かってた。最初から分かってたんですけど、ガンと向き合う妻とそれを最後まで支え続ける夫の話をみてこれは私の家族だ。と思ってしまいどうしても今は一方的に私の話を聞いて欲しくて書いています。
心に余裕がある人だけ見てください。
ただ、私が悲劇のヒロインに一瞬でもなりたいそんな気持ちだけで書いてるので特に意味はありませんし、わたしの人生です。あなたが何も思わなくていいんです。ただ、少しだけ聞いてください、
ある中学3年の夏休み期間に母の乳がんが発見されました。その時は父と母2人が病院に行き、私はその日の夜に父から話を聞きました。正直乳がんでも治るのが多い話ばかりを書くのでそれほど深く考えてませんでした。うちのお母さんが乳がんで死ぬわけないやん。ちゃんと治療したら治るやろ。と。誰でも発見当初はそう思うはずです。
その当時、歌舞伎俳優の奥様もたしかニュースで乳がんになって治療中だという報道がありました。
病気って重ければ重いほど実感湧かないですよね。
そこから私の受験と母の癌と立ち向かう生活が始まりました。当時私はこの成績では絶対おちると言われていた高校を目指していました。
母はその中で1度めの手術をしました。癌細胞だけを取り除きました。そこから2ヶ月ほど入院し、私は勉強を言い訳に父が全て家事を行ってくれました。ちょうど夏休み期間だったので毎日自転車で私はお見舞いに行き、母の病室で勉強していました。
その後容体は安定して無事退院ができました。
そこからは母は病院に検診に行きつつ、介護士としてとても素晴らしく働き、家事も私の送り迎えも何も言わずにし続けてくれていました。
当時、人生で私が一番勉強していた頃、受かるはずがない高校を一番後押ししてくれていたのは誰でもなく母でした。多分いや、絶対に母が一番不安だったでしょう。そのことを思うと今でも胸が痛いです。
冬休み前、詳しくは私は知らないのですが、母が再入院することになり片方の胸を全て取り除く手術をしました。多分その時既に母の体は蝕まれていたと思います。母が病院で過ごす中、年が明けました。
その1週間後に家に帰ってきました。
そこからは普通とは少し違うだけの生活でした。
母は抗癌剤治療を受けつつまだ働きに行き、髪の毛がなくなってしまった母に似合うカツラを家族全員でいろんなところに探しに行きました。
見事にお母さんハゲてましたねぇ、でも宇宙一可愛かったです。私にとって。
塾にひたすら通い続け私は無事合格を果たし、その高校に通い始めることができました。
片道2時間、朝は5時起き、その前に母は絶対にしんどい中昼のお弁当を私のために作ってくれ続けました。だめです、既に涙が、
私は念願の演劇部に入りました。その中で初めての公演に主人公に選ばれ(40のおじさん役)、母は仕事をわざわざ休み見にきてくれました。本当に嬉しかった。世界一大好き、
無事夏休みに入り、私は合宿に行きました。ハードな合宿を終えて帰りますと言う電話の時に母が再入院したことを知りました。
実はこの合宿に向かう直前母と大喧嘩をして家を出ていた時でした。確かにその時に呼吸が苦しくて動かないと聞いていたのにご飯が用意されてないときれたのは私で100私が悪いです。
私はみんなを置いて走って帰りました。
病院に着くと呼吸器をつけた母がいました。そこから母は呼吸器をつけ続けます。
たまたま夏休みで、学校に通わなくてよかったので部活は一時休部にしてもらい毎日夏休みの宿題を片手に母に会いに行きました。
そこからは辛いことしかありませんでした。熱がずっとあり、髪の毛は生えてこず、体を起こすのもままならなく、車椅子生活。食事をどんどん食べれなくなり、私たちの前で元気なところを見せたかったのかご飯を食べて戻してしまう母。
でもお見舞いに行くたびに笑顔を見せてくれて私は外に出れない母に幼稚園の頃から習慣にしていた今日あった出来事を話し続けていました。
ある日、弟を除き、父母私3人でお医者さんの話を聞きに行った際、余命1ヶ月宣告が出されました。
母は気づいていたようでした、そこから延命治療は受けない。家に帰りたい。という話をして、母が家に帰ってくることになりました。その時にはもう誰もが結末をわかっていました。
着々と家に帰る準備が進められ、リビングのダイニングテーブルは片付けられ大きい介護用のベット、酸素ボンベがリビングに置かれました。
帰ってきてくれる事実にただただ喜びでした。
その間も母は限りなく弱り続けていました。
3週間後、もうこれでもかという大騒動の中母は我が家へ帰ってきました。
その日、久しぶりの大移動で42度の高熱を出し、緊張の中一晩過ごしました。
薬を打たれて落ち着いた母は多分20時間は1日にずっと眠り続けていました。眠るのにも体力がいります、
ある日3日めの夜にトイレに行きたいと言い、動かずに管を繋いでトイレができるようにされていましたがどうしても座ってしたかったらしく、3人がかりで借りていた簡易トイレに母を運びました、その時の言葉は今でも忘れられません。母はぼーっとしながら
「トイレってどうするんだっけ」
と言いました。もう衝撃で涙も出ません。そのあとゆっくりベッドに母を戻し急いで自室へ戻り大号泣しました。なんでこんなに幸せでしかない私達にこんなことを受けさせるのか、そんな考えてもどうしようもないことを永遠に考え続けました。
4日目、いつも父だけがリビングで寝ていましたが、その日は私がお願いして女子2人だけで一緒に寝ることになりました。
深夜2時ごろ目を覚ました母にお水をあげて、点滴だけで何も食べてなかった母に、
「すごく美味しいアイスを頂いたんだ。食べる?」
と念のため確認したところ、黙ってうなずき私は本当に喜びながらたった三口だけれどアイスを口に運ばせました。
そのあと、家に帰ってきてから多分母が一番話した時です。私に多分熱で幻想をみていたんでしょうがある話をしてくれました。
「堺の動物保護センターに青い目をした猫がいるの。その猫と一緒に過ごしたいなぁ。」
その当時なぜか母は猫をとても飼いたがっていました。でも、かすり傷一つが人間に包丁を突き刺すくらいの代償になる体をしている母のそばにどうしても猫は置いてあげれませんでした。
それが最後の母の願いでした。
結論からいうとネットで探してみてもそんな猫は見つかりませんでした。
そのまま2日間ほぼ眠り続ける母と4人で暮らしていました。その間、医者、看護師さん、介護士さんが毎日通い続けてくださり、お見舞いも本当にたくさんの方が来てくださいました。
母は目を開けていましたがどこまで話が頭に入ってたのかはわかりません。
1週間の間に体はどんどん黄色くなり、私は初めてアジアの人が黄色人種と呼ばれる意味がわかったような気がしました。
ちょうど母が家に帰って1週間目朝の検診が終わった後、医者は静かに
「もう検診ではこちらへはお伺いしません。また何かあればご連絡ください。」
と言いました。それはほぼもうそろそろという意味なのを私は直接言われなくても分かりました。
医者が帰ったあと、自室でもうこれでもかというくらい泣き続けました。
父も分かっていました。
その日の夕方友達がお見舞いに来てくれて、17:30あたりにその子を歩いて送りました。送ったあと、帰って家のドアを開けた瞬間。弟が玄関にいて急いで私をリビングへ連れ戻しました。
そこにはもう息をしていない安らかに、何にも苦しめられずに眠いっている母が目の前にいました。
もうそれからはあまり覚えていません。
私たち家族3人は眠る母にありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう、もうそれしか出てこないんですよね。多分聞こえていたはずです。
その後お医者さんに電話をして、天国へ行ったことを告げられました。
父は最後の息の瞬間を教えてくれました。
「晩ご飯作り終わって、お母さんの方見てみると、右目に涙が溜まっててん。だから溢れる瞬間、お父さん涙を拭き取ってしまってん。その瞬間息の音がなくなってん。俺はお母さんの命を拭き取ってしまったんや。」
もうその後はあれです。お葬式です。
覚えているのはお父さんが初めて私たちの前で泣いたことだけが印象的で忘れられないです。
棺の扉を閉める瞬間ってなんであんなに残酷なんですか。もう、この目で今まで毎日見てきた顔を見ることができなくなるあの瞬間ってなんなんですか。あの瞬間が一番残酷で、儚くて、一生のお別れです。
母が亡くなって今年の8月で四回忌です。丸々3年です、今思い返すと信じられないです。
ごめんなさい。この文字を打ち続けた1時間、ヒロインになりました。満足です。
ただ一方的にこんなに話をしたことがなくて自分の内だけに留めておくのが苦しくて吐き出しました。
単純にこれは悲しみの嘔吐物です。
ねえねえ、ねえねえ、お母さん?
また顔を見せてよ、声聞かせてよ、匂い嗅がせて、ぎゅーして、怒ってよ、わたしの話を聞いてよお母さん。ねえ。ねえ…………
ごめんなさい。ありがとう。